木と暮らしてきたんだな

このひと月ほど大阪で過ごし
「ペンキの剥がれた小さな平屋の台所」に
立つことがなかったので
今月は大阪の叔父から聴いたお話を。

・・・・・

叔父が小さな頃、日本は戦時下で、
大阪からお母さんの実家のある
徳島に一人で疎開していたそうです。

徳島のおばあちゃんは
小さな孫を喜ばせようと
屋敷の周りぐるりに
いろんな果物の木を植え
戦時下でも
葡萄・いちじく・枇杷・みかんと
四季折々の果物をおやつに
楽むことができたそうで、

屋敷の中ほどでは
畑を耕し野菜や豆を作り、
風のある日には
収穫し乾燥させた豆を
カゴに入れて、河原にいき
カゴの中でザッザッと豆を上下させることで
余計なモノが風に飛ばされ
綺麗に豆が取り出されるなど
労働の中から生まれた
生活の知恵を沢山
おばあちゃんに教わったそうです。

その時育まれた、器用さや応用力は
後に歯科医としての仕事にも
とても役立ったと叔父は話します。

そして、終戦を迎え
大阪に帰るために降り立った徳島駅は
眉山まで一面焼け野原。

帰り着いた大阪も焼け野原で
バラック建の学校に通う毎日。

そんな戦後の物資の乏しい中
萩(山口県)から
トラックいっぱいの夏みかんが
大阪に送られてきたことがあったそうです。

萩の夏みかんの歴史を辿れば
幕末から明治にかけて
禄をなくした失業武士たちに
屋敷に夏みかんを植えることを推奨し、
当時は夏みかんの木が3本あればその家の子を
上級学校に通わすことが出来たというほど
果物は貴重だったそうで、
武士たちは経済的に助けられたという
そんな逸話があるそうです。

今では武家屋敷の
塀越しに実る夏みかんの風景は
観光に一役買っているそうです。
そんな「夏みかん」に助けられた歴史があり、
戦後の焼け野原の大阪に
夏みかんが届いたのかもしれません。
みずみずしいく爽やかな香りの夏みかんは
困窮する人々の喉をどれほど潤したことか…

話は変わり
今年は大阪で万博が開催されますね。
先の1970年の大阪万博とともに
日本初のニュータウンとして開発された
この地域は、無機質な街にならないようにと
住宅地を緑地で囲むという
工夫が凝らされていて、緑地を散歩すると
伸びやかに育った木々が心を開放してくれます

道路には銀杏や楓が
街路樹として植えられています。

街路樹に銀杏が選ばれることが多いわけは
他の木に比べ葉や幹に水分が多く、
火災の際には、延焼を食い止める
燃え難い樹のひとつだからということです。

実際に、関東大震災時に浅草寺を
大火災から守った銀杏など、
大火に焼かれながらも生き残った木が
今でも残されているようです。

この画像は昨年12月に撮影したものです。

人が知恵と人を思いやる心をもって
木とともに暮らしてきたことを
知ることができた叔父のお話しでした。

私は山や大きな木々が生き生きと育つ公園を
散歩するのが大好きですが、
木々は空気を保全し、
私たちの心を開放してくれるだけでなく
静かに私たちのそばにいて、いろんな形で
私たちを助けてくれていたんですね。

今日の公園では紅白の梅の花が
鮮やかに咲き誇り、楽しませてもくれました。

私も帰ったら庭の周りに果樹を植えたいな
何にしようかなぁ

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